Tuesday, March 27, 2007

村毎の主な村人のルーツ(現在も調査中である〉

兎之山の十亀家は.長曽我部に追われて西条市の保国寺に助けを求めたら、兎之山は天領地で誰も住んでいないと言われたので、そこに、住み着いた。

大保木・黒瀬の伊藤家は藤原鎌足公11代の孫と称する。
藤原朝臣為憲郷が伊豆押領使となり、伊豆の藤原として伊藤姓を名乗る。
これが大保木や黒瀬の伊藤の初代である。
33代目伊藤掃部祐範は祐範と改めて、天正の頃、七州から来て百合城に居を移した。
百合城の多郎左衛門尉が天正12年、百合城に奥の城を築き、飛騨守の弟、彦吉郎と共に居住した。翌天正13年豊臣秀吉の四国征伐の時、多郎左衛門の長男久右衛門が、神霊を棒持して黒瀬山の森に来て森権現を祀った。
古記録は焼失したが、坂中には伊藤掃部の墓があり、百合城には第三代伊藤久右衛門の墓がある。天河寺の辺りに、寺川一族が居城したとの伝承は根強い。
(伊藤一著黒瀬峠、本川村史第二巻による)

黒瀬の伊藤家の家系について昭和50年8月発行の秋山英一著の黒瀬郷土史の黒瀬出身の伊藤伝氏の報告によると「藤原鎌足公11代の孫、藤原朝臣為憲郷が伊豆国押領使となり、伊豆の藤原として伊藤姓を名乗る。
これが黒瀬や大保木、中奥等の伊藤氏の初代である。
33代目伊藤掃部祐範は祐重と改めて、伊予国百合城(緩城)に居を移した。
百合城の多郎左衛門尉が天正12年(1585)百合城に奥の城を築き、飛騨守の弟、彦吉郎と共に住していったが神霊を捧持して、黒瀬山の森に来たり、そして森権現を祀った。
代々伝えた古記録は、宝暦2年(1752>の火災の為に焼失したとあり、それから浦山の坂中には伊藤掃部の墓があり、そして百合城には第一代や第二代の墓が田圃の上の土手にあり、第三代の墓は田圃のなかにある。(第一代目や第二代目、第三代目の墓は現地調査済み〉
伊藤 氏が先祖から聞いた所によると、藤原の末孫出ある。紋所はイオリモッコで曽我兄弟と同じである。
先祖が百合城から若宮さんを背負って来て森に居を構えた。若宮さんは明治の始め、神社の統合の際に黒瀬の氏神さんになった。
そのため、神社総代4人の内2人は伊藤総本家の関係者が当たり、一人は森から、もう一人は本家から出した。
毎年旧2月4日には本家に招かれ、若宮さんのお祭りをし、ドジョウ汁や皮クジラの料理等の御馳走が出るのが習わしであった。
中奥字千野々の工藤家は天智天皇土佐国朝倉へ行幸のとき、お供九條右大臣範良郷が朝倉木の丸殿に泊まり、同殿を守護し、国司神主となり、代々子孫が相勤め11代の孫従五位工藤山城守祐良の子工藤祐家が建久年(1190~1198)予州山中1に大本大明神を山城国より勧請して住み着いた。
久左衛門の子孫に系図がある。
そして、中奥の七六と言うところの林次が持てる系図と略同じでいたってその真をみる。
久左衛門屋敷に丹波守の墓がある。他に400年前から住み着いた工藤家がある。
千野々の坂東家坂東の姓は、高知県の西部に多くあり、元々京都の公家であった。
そして、系図もある。それが土佐に赴任して、小さな城主になり、長曽我部との戦いに敗れてその土佐の幡多郷カクミ山城主が山奥の予州神野郷山中干野々に落ちて来たと先祖は書いている。
詳しくは、長曽我部の家来と争いがあって、その家来を殺して追われ、慶長18年(1613)1中奥山村毛野々に入った。
中奥山に入った中には、系統が違う坂東家が外に1つある。お地蔵さんを背負って土佐から戦いながら、千野々に持って来て祀った。
そのお地蔵さんは京都の辻々にある地蔵さんの一つではないかと思うと云っている。それを上佐まで連れて来て、お祀りしていたのを、また、背負って当地に落ちて来た。
そして、先祖は、土佐国長岡郡久保と云う所にお地蔵さんを祀ったが、その後氏子が離れ離れに成ったので、祈祷師に拝んで貰うと地蔵さんを捨てたりした者は家が滅びると云っていた.

そして、坂東家は本家であると云っている。カタミヤさんと云う屋敷神をお祀りしてあるが、その神は大先祖をお祀りしていると板東秀市氏は子供頃に聞いていると云っている。
戦績は系図の中にあるが、当地に来てから以降のことについては何も記録はない。
戚績の中にお地蔵さんを背負って赤揮をして戦いながら来たと書いてある。
「その後、坂東家では、赤揮をしてはいけない」と云う言い伝えがある。明治の末期に、家が没落して貧乏していたので巻ものにすることが、出来なかったが、その後、姉が戦績についての巻きものを土用干しをしていた時にバラバラに成って仕舞った。
それをまとめて巻きものにしなければ成らなかったが、当時の金で100円掛けて系図の方だけを巻物に拵えた。
巻物の方は、現在もそのままにして置いてある。
その巻物の中に牛頭天皇とスサノオノミコトを祀ったと云う経歴が書かれている箇所がある。
昭和10年に神社をまとめて合祀する時に、大元神社について書かれた資料の和紙が当時代の紙の質と異なり、偽物であると判断され、証拠にならないと県の神社庁から突き返された。
その後、板東家に松山から県の担当者が来て、戦績等の根拠になる資料を持って帰った。
それで、大元神社は、他の神社との合祀をせずに済んだ。
その時に、手土産を持って神主さんと県の担当者がお礼に来た記憶があると話をしている。天保の頃、曾祖父が跡取りのトモキチが道楽して、見込みがないので、追い出して、妹に後を取らせた。
そこに、大洲藩指南者が殿の勘気を被って、弟子の二人を連れて江戸末期に今宮に逃げて来た。そして、坂東家の系図を土用干ししている娘を見て、仲良くなり、出来た子供が祖父である。
父は明治13年に生まれた。祖父は父が12、13才になるまで家庭教師を付けていたが、父が20才頃には、無一文になり、没落した。
系図には、土佐幡多郷カクミ山城主板東ミツマサは故あって、伊州神野郷山中にいると書いてある。その神野郷は干野々に高野郷と云う地名があるので、そこでないかと板東秀市氏は話をしている。
中奥字西浦の伊藤家は、天正年間(1573~15921土佐国香我美郡{聾(ニロヴ郷岩界山の城主伊藤大膳時重が天正12年(158句長曽我部元親との戦に敗れ・中臓に来て住む。
八幡宮(現在の長曽我部内神社)を勧請する。中奥字細野の曽我部家は曽我部三郎と云う者が土州から来て細野に住む。
憚ることがあり、曽我部姓を隠し、細野三郎と名乗り、この地に留まり、畑を拓き、地名を細野とした。長曽我部の四国征伐後黒瀬にも駐在してしいた黒瀬飛騨守道信も豊臣秀吉四国征伐の時には、野々市の原の戦いに出兵して戦死した。
そして、細野の上曽我や中西の長曽我部も野々市で敗れて細野に逃げ、住み着いた。
その後十亀も金子城に加勢していたが豊臣に敗れ細野に住み着いた。
長曽我部の中には四国征伐に出兵し、引き続き豊臣秀吉の四国征伐に参加し、敗れ大保木山に逃げ込んで住み着いた者いる。
中奥の千野々天智天皇土佐国朝倉へ行幸のとき、お供九條右大臣範良郷が朝倉木の丸殿に泊まり、同殿を守護し、国司神主となり、代々子孫が相勤め11代の孫従五位工藤山城守祐良の子工藤祐家が建久年1190~1198予州山中藤合地に大本大明神を山城国より勧請して住み着いた。
久左衛門の子孫に系図がある。そして、中奥の七六と言うところの林次が持てる系図と略同じであってその真をみる。久左衛門屋敷に丹波守の墓がある。
他に400年前から住み着いた工藤家がある。中奥字西浦の伊藤家は天正年間(1573~1592)土佐国香我美郡郷岩界山の城主伊藤大膳時重が天正12年(1585)長曽我部元親との戦いに敗れ、中奥に来て住む。八幡宮(現在の曽長河内神社〉を勧請する。中奥の細野曽我部三郎と云う者が土州から来て細野に住む。
憚ることがあり、曽我部姓を隠し、細野三郎と名乗り、この地に留まり、畑を拓き、地名を細野とした。長曽我部の四国征伐後黒瀬にも駐在していた黒瀬飛騨守道信も豊臣秀吉四国征伐の時に、野々市の原の戦いに出兵して戦死した。
そして、細野の上曽我や中西の長曽我部も野々市で敗れて細野に逃げ、住み着いた。
その後十亀も金子城に加勢していたが豊臣に敗れ細野に住み着いた。
長曽我部の中には四国征伐に出兵し、引き続き豊臣秀吉の四国征伐にも参加し、敗れ大保木山に逃げ込んで住み着いた者いる。
今宮も秀吉の四国征伐の時に長曽我部秦元親の重臣伊藤八郎兵が藤原を連れて来て開拓する。屋敷跡や八旅館の跡がある。
そして、城を造るように建てた。西之川の高須賀天正年中(1585年頃)秀吉の四国征伐の時、長曽我部秦元親の武将高須賀行重が神像を背負って当地に来て開拓した。
そして、西之川の庄屋になった。詳しい資料火災で焼失した。東之川の工藤家は庄屋勘蔵の先祖は伊藤次郎という士、百姓嘉蔵の先祖は土州大森の城主大森豊後守家老伊藤右京助儀春、百姓平兵衛の先祖は寺川日出之左衛門正近皆天正年間(1573~1592)辻州から来る。
火災にて記録文書なし、言い伝えのみである。明治41年に中奥淀の溜の河内神社と合祀した嵯峨乃神杜は、卜記の事柄により、嵯峨天皇や日本最古の仏教説話集の転生について、関係があったと推測出来る。(白石史朗説による〉当時の石鎚山の山岳仏教に携わった高僧や地名等を挙げて後世に伝え、今後の課題とする。
① 橘姫が住んでいた処が橘姫あり、嵯峨乃神社や河内神社のあった場所の地名にも橘山中と云う記録がある。(次のページの嵯峨乃神社の略図を参照)
② 石鎚山の麓で修行した高僧灼仙や上仙の転生が書かれている「日本霊異記」「文徳実録」よって転生説が伝わっている。
③ 石鎚山の麓で修行し、天河寺の二世と云われた後天台宗の最澄の弟子になり、嵯峨天皇より寵命を蒙り、乞食袋を賜ったことは有名である。
④ 昭和20年前後に河内神社の西側に元東遥拝所があった所に、「嵯峨天皇を嵯螂乃神社に祀ってあっという」内容が書かれてあった話を淀の工藤金太郎氏からお聞きしている。
そして、伊予西条藩の松平頼純公が巡検の途中に河内神社に立ち寄りお手植えの杉を植え、約20年前に伐った。
歴史的に見ると中奥の氏神は他の神社と比べると昔は格式が高く扱われていたし、神社や寺の建てた場所については根拠があると思う。東之川山村と東之川工藤家,伊藤家は源氏に追われて,土佐から瓶ケ森を通って逃げてきた平家の落入で、東之川に身を隠し、住み着いた。工藤ノブエ氏會ばあさんの話によると前田峠辺りで平家と源氏が戦った。前田峠には「ヒヨットデ」という地名がある。「ヒヨットデ」という地名は敵の源氏が飛び出して来る所で、注意を促すために平家が付けた地名であると言われている。
最初は山の上の平地に住み着き、農作物を作りだんだんと下に降りて谷川の側の平地に住むようになっていった。
昔は菖蒲峠でも大根を作っていた.菖蒲峠は国の境を決めるために勝負した場所を意味する地名である。
伊藤家が東之川の庄屋であった。東之川の土居又は寄付きに観音さんが現在もある。その上に庄屋の屋敷跡があった。
天保頃には人口が多く、東之川に70軒の家があり、工藤家や伊藤家が多く、他に寺川家や曽我家が2~3軒あった。
中奥の淀や溜の工藤家、大保木の工藤家は東之川の工藤家と同族であると言っている。
昭和26,27年頃になると少し国内も落ち着き、町への移住が始まり、30軒になっていった。
その後は過疎が進み、一時は1軒になった時があった。そして平成10年には2軒になっている。
現在も休日には、山持ちの人は町から山に帰り、木の手入れを続けている。
そして、住友共電千野々発電所の給水所の水路番が点検に来るか、郵便局員が平日に新聞や郵便物の配達にやって来る以外は、峻険な峰に囲まれた山間の閉寂な村である。
その村にも,盆や祭りには町から帰ってきて、氏神を祭り、ご先祖のお墓に参り,供養をしているが、現在は盆や祭りに帰ってくる人も少なくなり、次第に子供の姿も見かけなくなつている。
木は大きく成長して,村は完全に自然に.帰っている。
前田峠の下には,南急斜面に石を積み住み着いた屋敷の跡が点在している。
その斜面のヒュウラという所に,お垂るという滝がある。
「お垂る」は辞書で引くと渓谷が段階をなしていて,雨期には滝になる所,谷川の滝のある所「垂」の意と書いてある。そこは,観光地のように人影はなく,静かな木立の自然の中に悠々と休むことなく,飛沫をあげながら山水を落し続けている。
手前の紅葉の間から滝の姿を覗かせているが,滝壼に降りれば,全体が見え,立派な滝の姿が現われる。その滝壼には酒樽を作って水につけた所であると側の看板に書いてある。
戦前,東之川の右手の山には,三菱系の瓶ケ森鉱山と左手の山には,ヒノジ鉱山があり,最盛期(昭和初期)には,映画館や店があった。
夜は電燈がともり,現在の山スキー場の明りと同じようであったと土地の古老から聞いている。
掘り出した鉱石は東之川から前田を通って,千野々まで索道で下ろし,そこで荷馬車や自動車に積換え,一時期港まで運んだ。
其の後,索道を引き換え菖蒲'峠を通り,加茂の下津池まで下ろ自動車に積換え運んだ。
戦後,索道の施設小屋を使用して映画や漫才の興行を,昭和30年頃まで時々やっていた。
住友共電は最初に小さな発電所を作り,西之川,東之川,前田、千野々の順に配電して,電力によって西之川と東之川とで水を集め,7逢道を掘り千野々の上から水を落して発電所を作った。
落人は必ず,元の氏神の祭神を勧請してお祭りをしている.東之川の観音さんがある所にがあり,その観音さんも昭和59年4月8日キ後5時30分頃に放火され,全焼したが,その後観音さんを再建した。
東之川の氏神高智八幡神社は慶長17年(1617)に大織冠鎌足公の後喬工藤兵部之亟土佐国香我美郡山村黒森城主のとき其の第五子,全苗集人範重が伊予国新居郡の山中の東の川に来て工藤家崇拝の祭神を勧請した。
その後藩公の信仰も厚く,祈願代参,神殿建築等があった。
明治41年に荒神社を八幡へ合誕し.高智八幡神社と改称した。
お垂の上に祭っていたお稲荷さん・金毘羅さん・天神さんも大正時代に高智八幡神社に合貿した。
現在もお稲荷さん・金毘羅さん・天神さんの跡がお垂るの上にある。彦座という瓶ケ森鉱山の上の菖霧峠の近くに小さなこの彦座は九州の英彦山や熊野権現と関係があるのでないかと思う。
真の道教団は彦座を祭っている。彦座に登るには,東之川からでは時間が掛かりすぎるので,昭和33年10月13日に前田峠の下に拝殿を建て,その拝殿から真向いにある彦座を拝んでいる。毎年11月13日に西之川の大宮神社にお参りして,そして東之川の拝殿にお米,御神酒,お塩をお供えしてお祭りをしている。
工藤ノブエ氏の話によると,お垂るの上の天辺と家の近くに3箇所に小石を積み上げて若宮さんをお祭りしてある。また,藤原ユミ氏の話でも今宮にも3箇所に若宮さんをお祭りしてあるそうだ・東之川と今宮の若宮さんは関係があると思う。
今後の研究の課題である。明治年に東之川の一番良い場所の「ナルマ」に小学校が出来た。工藤ノブエ氏の話によると昭和初期に谷口夫婦の先生が赴任され,非常に熱心に勉強を教えてくれたと言っている。
昭和2年に,西之川と東之川の間の林道が完成したので,大保木村の方針である統廃合が,昭和11,12年頃に実施され,大宮神社の横に両小学校が統合して,高宮小学校が最初に建てられその校舎が完成するまで,一時,西之川小学校の高学年生は,東之川小学校に通学して学んだ。
多い時には各学年1クラスの6学級ありクラスの人数は約30名であった。
昭和9年頃,東之川から大保木の高等科に進学を始めた。
東之川から山道を通り,前田峠を越え,千野々に出て高等科に行くのが時間も短く,便利であったが。
雨の時には,細い山道が悪く,通うのが大変で辛く,西之川に行けば,友達も多く,朝5時に起きて,林道や県道を通って,河口を回り,千野々の仙徳寺に出てそこから新道を上り,片道2時間以上掛かって通学をした。そのために,早朝や夜は,懐中電燈で道を照らしながら,雨や台風,雪の時も通い続けた。
当時虚弱であった工藤ノブエ氏は,体調の悪い時には,細野の親戚に泊めてもらったり,病気の時には,欠席したりしながら,2年間高等科に通い続けた。
そして,時々下谷から住友鉱山の鉱石運搬用のトラックに,便乗させてもらったそうである。
このような状態だったので,通学が精一杯で運動になったが,あまり勉強には成らなかったと話していた。
1才年下の妹さんは頑張って,皆勤で2年間通学したので卒業時に,渡部先生が新聞社に記事として取り上げてもらった。
西之川から東之川までの林道も拡幅され・昭和30年~40年の10年間,瀬戸内バスが東之川まで乗り入れることになり・夜は東之川に泊まって,翌朝一番に出て中学生を千野々の大保木中学校まで乗せて走った。
産業は林道が付くまでは.朝2時に起きて三鞭や,痛の樹皮・番茶を前田峠を越え,千野々に下り,極楽寺,里山,七曲り,黒瀬峠,長谷の旧道を通り,氷見に負い出し,買物をして帰った。
昔,捕や三授,番茶のシーズンになると一家総出で・夜もあまり寝ず,夜どうし作業をした。
現地にいると太陽が当たらず,茶の木も大きく成長出来ず,杉林の木立の中に小さくなって点在している。そこには,番茶の産地の名残がある。東之川の中央には,寺川人吉氏の立派な碑がある。氏は長年村会議長を勤め,村民のために尽くされた功績を讃え,村民が碑を建立した。
そして,碑に書かれた字は,久松知事の直書である。また,昔は,土佐の寺川地区の生活圏は愛媛県新居郡にあったと思う。高知市内に出るのにも高山が多く,より不便であった。
町から黒瀬峠を通り,千野々,前田,東之川を経て,山越えをして寺川に行き,生活必需品の行商で生計を立てていた人もいた。西条市には,寺川出身の方もおられる。
現在本川村には,高知市からバスが入っているが,西条市からは距離的には近いがバス路線がない。東之川と土佐の寺川とは平家の落人との深い関係があった地域だと思う。

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